近藤藤守先生百年記念に向かって(2)   教会長  

   近藤藤守先生は、世のお役に立つ人材を育成するという大きな願いを持たれていました。
佐藤範雄先生とともに、『神道金光教会学問所』を設立し、さらに一般庶民への教育機関となる
『金光中学』を設立されます。その際、授業を担当する先生を集めなければならない中、藤守先生
は、旧知で伊賀上野に住む教育者の、川合万吉先生の元を訪れます。そして、お道の発展のため
、お役に立つ人材育成のためと熱心に説かれた川合先生は、その熱意に打たれ、金光中学へ
赴任されます。その時の様子を、川合先生は
「〜未熟のわが身を省みては、又その任に当たることの難きを思い、再三再四ご辞退に及ぶが、
お断りすればする程、なお一層のご熱心にほだされ、辞を尽くされてのお勧め黙し難く、ついに、
あえて請う『槐より始めよ』の故智にならい、やむなくお受けした。そこで、(明治)二十七年五月
藤守先生のお供をして初めて教会本部に参りました」
と自述されています。佐藤範雄、藤守両先生は、文字通り身銭を切って、この学問所と中学を
切盛りされます。

 そこから6年後の明治33(1900)年6月に、金光教は政府から別派独立を認められます。
その時のことを、川合先生は
「 〜この教師養成の機関たる中学の設置しあることが、又当局の独立許容条件の一に数えられたそうです。
今や金光中学は、明治三十一年の改築の機運と共に、六百五十の生徒を数え、五百の卒業生を出し、関西
に於ける私立中の模範中学として天下の注目をひくに至ったのは、佐藤校長の措置宜しきを得、教内篤志の
人々が常に援助の力をいたされた賜たることは今更申すべきまでもなきことであるが、その創立者たる近藤
藤守先生の功は又、金光中学の存する限り、ついに没することができないものであります」
と述べておられます。
 その藤守先生の願いは、藤守先生ご帰幽後、浪花女子の前身となる進修高等女学校創立につながり、
さらに戦後、難波三代教会長、近藤守道先生のもと、浪花女子(現、金光藤蔭)、金光大阪、金光八尾と、
まさしく世のお役に立つ人の育成を実現する学校へと発展をとげていきます。
 教祖様から藤守先生が教えられた神様の思いを、ご帰幽から百年後、色んな形で実現できていること、
本当にありがたいことだと実感しています。またそこに、私の曾祖父の元に参拝していた川合万吉先生が、
学校のためにかかわっていたことに、不思議なご縁を感じずにおれません。

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